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17世紀にイランを訪れたイタリア人とアッシリア人の妻


サファヴィー朝イランに関する優れた紀行文を残したピエトロ・デッラ・ヴァッレとの付き合いは20年を超えます。まだ大学院生の時代に、岡本さえ先生の編著『アジアの比較文化: 名著解題』に寄稿しました。ここで引用するのは2014年に発表した拙稿「ピエトロ・デッラ・ヴァッレの旅―17世紀イタリア人貴族の見た「イラン社会」―」からとなります。

イタリア・ローマの名門貴族の家に生まれ、「失恋」を契機に東方旅行に出かけたともいわれるデッラ・ヴァッレは、バグダードでアッシリア人を父にアルメニア人を母にもつまだ10代のマアーニーと結婚しました。妻の属する東方教会のキリスト教徒をオスマン帝国の支配から解放するため、サファヴィー朝のアッバース大帝のもとに向かいます。論文でも記しましたが、高い教養を持ち、通常は「異国人」としての様相を保つのが当然の時代に、自らアッバースの真似をした口髭を蓄えるなど、現地に溶け込もうとした(それが許された)点で、極めて特異な旅行者による興味深い紀行文です。何よりも旅行中に若くして客死した妻マアニーについての叙述は胸を打ちます。

以下、引用

我々はあくまでデッラ・ヴァッレの語りの中でしかマアーニーについて知ることはできないが、少なくともその書簡からはともに助け合いながら旅を楽しむ二人の姿を認めることが出来る。砂漠を通過した際には、デッラ・ヴァッレが苦心して用意した大型の輿の中で眠ることも出来たが、マアーニーは、満天の星空のもと、夫と寄り添って寝たいと綿布団を巻き付けて革の帽子を被って一緒に休んだ。午後は輿からでて供回りから少し離れて、ダルヴィーシュと名付けた穏やかな性格の馬に乗った妻と、泉や木陰、小川の畔などで食事をとり、その後は狩りや散策を二人で楽しんだという。カスピ海では、ボートで海へ向かおうとするが、バグダード育ちのマアーニーは海が初めてで揺れに気分を悪くしてすぐに引き返した。マアーニーは生き物を好み、輿にも犬や猫を飼っていた(ちなみにいわゆるペルシャ猫に西欧人で初めて言及したのがデッラ・ヴァッレであった)。質素を好み、いつも朝一番に起きて極めて活発で、乗馬もよくして武器を肩にかけて山野を駆け巡る、アマゾン女のごとくの生き生きとした女性であったと記す。

引用終わり

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